昭和39年12月12日 朝の御理解
もう十年も前の事だったでしょうか。大変ねずみが多くなりまして、神饌室を荒らす、御神前にお供えしておるものまで、その損害を受けるようになったんです。それである日あのう、久富先生がねずみ取りをかける事を、どうぞお許し頂きますようにと言うお届けがあった。私はそんな事ではいかんと私。それで久富先生が色々考えられたんですね。それからその翌日にはどうぞ神饌室、ましてこのご神前のお供え物まで荒らすような事でございますから、どうぞ神様のおかげを頂いてから。
そのねずみが害が御座いません様に、と言うてお願いなさった。それでお取次を頂いて願われた訳ですね。所がもうその日を境にねずみが、もうこれこそもうお広前があっち行ったり、こっち行ったりするくらいねずみあるんですけれども。御神前を荒らす事のない神饌室を荒らす様な事のないように、ついこの頃までおかげを頂いておりました。言うならまぁ十年あまりおかげ頂いていたんですね。
それで最近では、熊本から猫を持って来るって言われる(笑い)そういう風にしっちゃぁもう、もう一遍どうでもいっちょねずみ取りをかけちいうちから、皆そうにゃ今ねずみからのその、所謂そぞくの被害を受けておる訳なんです。そして丁度十年前以上にです神饌室が荒らされ、御神前が荒らされしておる訳ですね。今朝も私が御神前に座らせて頂いたら、私にこれみよがしににです、神様はこうあのう柿の一番真正面のがこう、真正面のをカッチリ、こうやられてる訳なんですね。
そういう例えば言うならば、久富先生としては、お取次を頂けばおかげ頂けれる、と言った様な味を占めておられるのだけれども、久富先生自身それを願われない所を見ると、これは久富先生限らんのですけれども、皆がそうなんですけれども。もうお取次を頂いただけではいけないものを、椛目全体の者が感じ取らなければ嘘だ、とこう思うですね。これは私を中心にしてそうなんです。これみよがしに例えば御神前の物が、そんねずみに荒らされておると言う事。ね。
どうぞねずみが荒らしませんようにと。もう言うだけではいかんお取次を頂いて、願うただけでじゃもういけない気が致しますね。私がその事を思わせて貰いよったら、お詫びする以外にはないなと言う事をここで、これは私自身お詫びする以外にはないなと。愈々謙虚に、神様の前ひれふす以外にはないと。お詫びをして行く以外にはないと。要するに是はもうお詫びをしただけではいけん。はぁすいませんすいませんばっかり言うとっただけじゃいけん。
お詫びをすると同時にそこの所が、改まりが出来て行かなければ出来る事ではない。いうなら皆さんはまだねずみがどんどん出てからです、御神前をどんどん荒らすならですはぁ先生がまぁだ改まっとらんばいなと一つ皆さんが思うて下さっても、まぁ言うなら良い様なもんです。この神様はね実を言うたら、人間のだけ事ではありません、ねずみだけの事ではありません。猫だけの事ではありません。ね。
神様がお生かしになっておるのであり、神様がお守り下さっておるのであり、神様のおかげを頂かねばねずみ一匹だって、ねずみが動く事出来んのであり、猫がどうする事も出来んのであり、いわゆる人間でもさぁどうする事も出来んのですから。その一切の働きと、その界を握ってござる神様に願う、願っただけではおかげ頂けんならおわび。お詫びだけでもおかげ頂かんなら、また詫びるそしてすがると言う事で、以外にはないでしょう。神饌室はなんてろくそうない事かと。
最近それを感じます。ねずみが出るからだけじゃありません。神饌室の神饌を、犯さないわん、汚さんないわみと久保山先生が筆太に書いて貼っておってもです、ね、どこのかってもとの言わば、台所よりも浅ましゅうこの頃、汚れておると言う事。乱れておると言う事。ね。それは形の上では私、昨日ご本部から帰らせて頂きましたら、神饌物がまだあっち向いたり、こっち向いたりしておりますから、私は昨日全部神饌し直させました。私の信心私の性格としてはです。
ああいうこう歪んでおっても、私は前に座って御祈念が出来んです。それからとそうしたからと言うて、ならおかげ頂いているものではないと言う事。問題はどうして神饌物がああいう風に汚れたり、歪んだりするように最近なったか、と言う事なんです。誰じゃありません彼じゃありません、矢張り私の信心だと。さぁそのようにおかげといわん、おかげという意味合いにおいては、それこそやがゆえに、いやがゆえにおかげを頂いておると言う事。昨夜皆さんが帰った後でです、何の事からだったでしょうか。
久富さんが前の日の月次祭の、沢山おそなえんのお魚を、あの料理いたしますからね。あの冷蔵庫入れるために。それでその切り端とか汚物なんかを全部あの、豚のひょうりに持って帰られるんですよ。そのこその話からだったです。この頃あちらの豚を大体おらん、なくなった死んだっていう話しよったのに、まだいるおるだろうかと。
あんたのがまたおると言う事から、それで持って帰られたんですかと言う様な事でしたけれど。その事からでした。あそこにようするに有名な豚がおったですもんね。もう言わば、神様のご神意のままに、言わばガリコを買われた。息子達は大反対だった。隣り村まで行きゃ立派な豚がおるのだけれども、親先生がこっちんとを買え、と仰ったからそれで買いに行った所が。
もう売り行ってしまって、ガリコが一匹残っておるだけだった。繁雄さんはそれをわざわざ買うて来るわけです。親先生が仰ったからっち言うて。まぁそれはあれを育てようと言うなら、まぁ大変な事でした。言うならそんなわけなんですから、大きくはなりませんでした。けれどもんならあれから何年になりましょうか、3年か4年になりましょうけれども、もうとにかく子供を産む事だけはまぁ名人でした。多産経なんですねいわゆる。十何匹ずっと産むんです。
そしてその時でも神様のおかげを受けておると、受けていないと言う事をこう見せて下さるわけなんですね。やっぱ隣りのお百姓さんでその豚を一緒に買うておる方がある。あの時分にですね、あれ何んてりくんじゃったか何じゃ。誰かがそのよこずな時分だったです、大きなずっとあいこの時分じゃった。その横の方が同じきんいがあると言うごたる不満で来たんです。
もうそれが親と子ほど違うです、同じ親豚でも。所が隣りのとは3匹しか産まんて、こっちでは13匹も産んだりち言う様なおかげをはっきりこう、隣り同士に見せて下さるようなおかげ頂いた豚なんですよ。それはもう豚がそのこうその豚が住む家の事についてでも、こそりゃぁ何ともかんとも言えんようなおかげ頂いたんです。あんな村中にありますのですから。
何かの豚小屋こまく小さくなって、建てなければならないといった時なんかですね、こうやしもとのげんけんのです、地を付かなきゃいけんのです。その時あんた明日から地をつかんならんという時に、トラックがそこをもう普通トラックの通る所じゃないんですね。それにトラックが通ってです、トラックが村の人の道のものですから、やわいもんだかいこうに入れた。
そのトラックが小砂利をいっぱい積んでいたわけなんです。それから全部こぼしてしもうた。さぁ乗せるわけにはいかんから、すいませんけどもここでん使うてもらう所があるなら使うて下さいち、もうそれがそこの基礎を基礎を作るとにですね、すると言う様におかげ頂いたんです。その豚を中心にして。例えばその豚があのもひん死の重態にもちった事がありました。
私が田主丸の共励会から、宅祭りから帰ってきた日でしたから、ああしておらっしゃった丁度、久富さんが何べんかのお願いに、その豚の事で本人が出ておられる時でした。でも、愈々今日はりんじゅうと。父が豚小屋の中に入ってから、一生懸命「金光様金光様」と言って、拝んでやりょるけれどももういかんっち。もれでもう言うならりんじゅうのお届けがあっとったんです。もうそういう特別な神様のおかげを頂いてから、そうした豚の事ですから特に家族中の者が、あぁ大事にされましたんですね。
もう家族中でおおとりなさっとるような状態でした。それで私があの2合びんに御神酒、御神酒って。御神酒を頂かせなさいち、と言うて私が人間に、そうすると同じようにです、お御神酒とご神米を下げて、まぁ持たして帰らせたそのお神酒を頂いたらおかげになるばいち、と言うたらそのお神酒を頂いたんです。それからおかげを頂いてそれから後何年間、言わば子供を産み続けたんですこの豚は。その豚がですこう2、3ヶ月前だったでしょうか、それこそコロッと死んだんです。
それこそ豚コロリですと言う(笑い)。それが原因はどうかと、私はそれは家内家内と思うておった。そしたらその久富先生がやられたんだそうですが、沢山明日おかがみさんを頂きますもんですから、おかがみさんを切る切りくずが出来るわけですね。こんくらいばかりの。そしてそんかいがいしくしとるもんですから、その繁雄さんにもうこがしこどんこんされんけん、豚んなっとんやってくれんのと言うてから、まぁポッと投げやるようにしてから沢山やられたわけです。
それが3枚だけ頂いたその方の、まぁそんなら頂いて帰ろうかっち言うてから豚に食べさせた、それを食べてからコロッと亡くなった。分かるでしょう。それこそおかがみさんの一切れで、ない命が助かるというほどの、言わばおかがみさんなんですよ。例えば荒木みきお先生の、あのご伝記なんか読みよったらある方はそれこそ正月なんかは、もうやっぱり何ヶ月間というものは、おかがみさんばっかりだそうですね。
修行生一同が食べ食べる。しかもそのかびが生えてもう食べ難い様なのを、神様のお下がりだから勿体無い、勿体無いという風に頂かれた。と言う様なものがです、成程椛目の、毎月のそりゃたんびに頂くもんですから、もうやはり頂きあいてるわけです。もうかびの生えたんどん食べんごつなっとるっち。ね、もう邪魔ものにしてしまっておる。そしてもううちむこ、そんここでは手に付けられんもんじゃから、豚んなっとん食べさせてくれんのって言うて、まるっきりそのいらんもんばしやるごとして。
そのやる方も悪か、その気付かずに頂かした方も、矢張り手落ちだったと私は思う。それを頂いてからコロッと亡くなったんですて。お届けがあって初めてはぁ本当に相済まん事だったなぁと私も気付かせて頂いたんですけれども、ね、ここを皆さん一つどうぞ分からなければいけない事なんですね。お願いをしておかげを頂く。お取次を頂いておかげを頂くと。ここの十年前のねずみが荒らした時は、それでやっぱおかげ頂いた事だけは事実なんですもん。
もう最近の神饌室には、言わば荒れようはもう本当に私は自分ながらも、はいと立ってと言うて自分で片付ける事は出来るの人でもですけれども、こりゃぁ私が片付けたんじゃでけん、神様が片付け頂くより以外はなかと私は思うです。ね。そこで私は今日はまぁ、本当に自分いや恥ずかしい事ですけれども、神様は私にそれこそさぁこれみをがしに真正面の神饌ものをです、ね、本当なら向こう側から食べるのがほんなこっですもんね、鼠は怖がってるんですから。
こうやって真正面の頂きにくい所から、かじっておると言う事ですよ。これは神様が私にもう見せ付けておられる。突きつけておられる。これでも気がつかんか。と言う様な気がするんです、今朝しきりにそう思うんです。誰彼じゃありません。結局私がもうお取次を頂いてお願いをしたというだけではいかん。私がその事に対して詫びるより他はないと。詫びる事は沢山。そしてもう詫びただけじゃいかん、詫びると同時に改まらなければ出来んと言う事をです、こう教えて頂いておる気がいたします。
それで私皆さんの前にこうあえて、そのお話をしておるんですけれどもです、神饌物が荒らされる。神饌室が荒らされる。ははぁまだ先生が改まっちゃなかばいの、と皆さんが言い言うたり思うたりしなさったって、仕方がないんです私自身としては。と言うてなら今更私もねずみとりを掛けようとも、ね、猫を置こうとも思いません。何故ってそれは神様の働きを私は知っておるから。
神様の心にかなうものがあるからこそ、あれなのですから。そして一つ皆さん、椛目の信心の進め方を今日の御理解の中から分かって頂きたい、欲しいとこう思うのです。福岡の櫻井先生が、夕べ御理解を頂いた、御理解ああ、御祈念前でしたか。ね、お道の教師の資格取られて何年でしょうか。教会修行が十何年。そうして言わば信心に専念された。けれでもです、現在椛目で体得させて頂きつつある所の信心の、進め方と言うものを、全然気が付かなかったと言うておられます。
信心の稽古というのただ、こうやって様々なあります。けれどもその焦点ともなるそこを自分は気がつか、つかなかったとこう言うておられる。いうなら勉強一生懸命、試験勉強なら、試験勉強をするのだけれども、ね、勉強のし道が分からなかったて。だから勉強その事に、さぁ一生懸命試験なら試験の時、試験勉強を致しますけども、そりゃ勉強の苦しさだけしか感じられなかったわけです。ね、最近ではです、例えば夕べもその事を言うておられますけれども、どういう問題が起こっても、難儀があってもです。
はぁ神様はこれでどういう稽古をさせて下さるだろうかと、楽しみのようなものが心の中にある言うておられます。そこを焦点にしてです、ね、例えば私がならそのねずみの害を受けてからです、ね、ある時皆さんに申しましてから、御神前が荒らされる様な事はもうこりゃ、ここの今日例えば神愛会の会長であります所の、私自身の信心のこれはもう低下。低下と言うよりかその何と申しましょう、神様のおしかりを頂いておるようなもの。それを、例えば今朝なんかは、痛感するのです。ね、
そこでならお互いがです、どうぞねずみが出ませんように、というたお願いだけではもういけないと言う事。それに対する所の猫を置いたり、又は猫いらずをその置くとか、ね。ねずみ取りを置くと言う様な、それに対する、あり方だけではもうだめだと言う事。それでは信心は進められないと言う事。自分の信心を進めて行くと言う事はです。そこに自分自身の信心をおかされておる、おかされなければならない元をです、追求してそこをとっつめて詫びて行く。ね。
もう本当に謙虚に詫びて行く。しかも今は荒らされんと感じた、そのそこん所の改めますからおかげ頂かせて下さいという次の願いになってこなきゃでけんです。もう一服しません、例え言う様なものがなからなければでけんのです。そこで今日からはです、私はなら今日の御理解を頂いて下さっておる方達がです、はぁまだ先生が改まっちゃなかばいのうという、私も笑われるのは嫌ですけども仕方がないです。他に手を打とうとは思いません。ただそのん所に焦点を置いてです。
私の信心を愈々改めて行く以外にはないなぁと思うておる。そういう信心の進め方をですやっぱ皆さん体得されたら、もうどこに持っておいてもおかげですな。例えが娘なら娘息子なら息子がです。どういう遠隔地に参りましてもです、あの人はもうここん所を体得しとるからもう親も安心です。どう言う事があっても焦点をそこにおるんですから。皆さんの場合でもそうですお取次を頂いておかげを頂くというけれどももうお取次を頂いておかげを頂く、という所ではもういけん。
とこう悟られたらです、お取次を頂いて詫びさせて、詫びて詫びぬかにゃいけません。お取次を頂いて改まらせて下さい。神様に縋って今まで出来なかった事をです、改まろうとして改まれなかった事をです、神様へ縋ってお詫び、そして改まっていかにゃいけません。それもお取次を頂いて、そこん所に焦点を置いていかにゃいけませんです。そこに信心の進め方。ね、勉強になら、勉強の進み道が分かったというならば、そう言う様な事が分かって行く事が、信心の進め方が分かった。
心がもう限りのない信心の進展があります。限りないおかげが勿論、それに共のうて来る事は勿論です。ね、そこん所を一つ私今日はもう愈々、焦点を置かせて頂くおかげを頂こうと思う。皆さんもそういう信心の一つ。
(途中切れ)